サマリー
『夜ノヤッターマン』のドロンボーたちに「正義」はあるのか?という考察です。
※註:第1話だけ観た時点での感想です。第2話以降で評価が変わる可能性があります。
『夜ノヤッターマン』がネットで話題に
ども、おおしま☆ゴーです。
みなさん、深夜アニメ、観てますか?
1月から始まった2015年冬シリーズも面白そうなアニメがいっぱいで嬉しい悲鳴です。
その中でネット上で盛り上がっているのが、『夜ノヤッターマン』という作品です。
■夜ノヤッターマン
この作品、アニメファンの多くはノーマークで事前の下馬評ではまったく話題にも上がらなかったのですが、第1話が放送された途端、ネット上では「かっこいい!」、「熱い!」、「泣けた!」を話題沸騰中です。
今さら説明も不要だとは思いますが、『夜ノヤッターマン』は、元々は1970年代後半に放送されたアニメ『ヤッターマン』のリメイク作品で、現在40歳前後の人にはとても懐かしい作品でしょう。
元作では、悪役のドロンボー一味を正義の味方ヤッターマンが懲らしめるというとても分かりやすい勧善懲悪ものでした。まー子供向けアニメですからね。
ですが『夜ノヤッターマン』では、その立ち位置が逆転。
ヤッターマンが、超管理国家「ヤッター・キングダム」を支配する独裁者、
ドロンボー一味が、このヤッターマンの支配を打ち砕く正義のレジスタンス、
というスタンスで描かれています。しかもドロンジョ様は9歳(笑)。
「ヤッターマンとドロンボー一味の立場を逆転させる」という発想が、元作を知っている世代にとってはとても斬新で、意表を突かれます。
またその構造のおかげで、単純な勧善懲悪ものでは収まらない奥深いドラマ性を含んでいます。
※おまけですが、ボヤッキーとトンズラーがイケメンおやじになって最近流行りの「バディもの」的要素も含まれており、BL好きの腐女子にも人気が出そうです。ボヤッキーの声優に、『タイガー&バニー』の平田広明さんを起用するあたりは確信犯だろーなぁー、と。
ドロンボー一味の「正義」とは?
キャラクターも作画も設定もドラマもとてもよく作り込まれており、第2話以降もとても楽しみな作品です。
……が、ちょっと気になった点が一つだけあったので、それに対する考察をしたいと思います。
ドロンジョの母親が病気になり、「正義の味方」であるヤッターマンに母親を助けて欲しいと懇願するため、ドロンボー一味はヤッター・キングダムに向かいます。
しかし、ヤッターマンはドロンボー一味を無碍に門前払いします。これにより結果的に母親は助からず命を落とすことになります。
母親の死に悲しむドロンジョ(9歳)。
「母親が病気で死んだのは、ヤッターマンが助けてくれなかったらだ。
ヤッターマンは正義の味方なんかじゃない!母親を見捨てた悪い奴だ。
自分を含め辺境の地で苦しい生活を送っている人たちを見捨て、自分だけがヤッター・キングダムでいい生活しているのは、ヤッターマンが悪だから。
だからヤッターマンにお仕置きを!」
こうしてドロンボー一味はヤッタ・キングダムに乗り込みます。
ドロンボー一味に「正義」はあるのか?
このストーリー、一見すると「悪代官を懲らしめるねずみ小僧」というか、ドロンボー一味が「弱きを助け悪をくじく正義の味方」っぽく感じます。
ですが、ヤッターマン側からすれば逆恨みもいいところです。
ヤッター・キングダムに勝手に侵入してきた密入国者に対し、警告の上威嚇発砲をして追い返しているだけで、まったくもって正当防衛です。
ドロンジョの母親を救出するかどうかなどは、ヤッターマンが関知する話ではありません。
もしドロンボー一味が掲げる論理で「正義」が成り立ち、ヤッターマンにお仕置きを加えることに正当性があるとしたら、場合によってはそれは「テロリズム」の肯定に繋がりかねません。
なんでわたしがこんな突拍子もないことを考えたか?というと、
- ヤッター・キングダム = イスラエル
- ドロンボー一味 = パレスチナ自治区のイスラム過激派
という構図で(勝手に)解釈してしまったんです。
どちらの側にも「正義」はある(はず)
もちろん考え過ぎなのは分かっていますし、タツノコプロ側もそんなことは毛頭考えていないとは思います。
単なるアニメ(エンターテイメント)にそんな目くじら立てなくても……、という気もしますが、他の部分が良く作り込んでいるだけにちょっと気になったもので。
ヤッターマン側にも正義はあるし、ドロンボー一味にも正義はある。
どちらが正義でどちらが悪か、単純に割り切れないからこそ生まれる深いドラマというのもあると思います。
もしかしたらタツノコプロもそのあたりを狙っているのかもしれません。
『夜ノヤッターマン』の第2話以降の展開にも注目していきたいと思います。