■愛妻家、日本タイトルだけ大賞に行き、おくさんに「残念賞のタイトルは『できる男は乳首で決まる』だったよ。どう思う?」と聴いてみました。
http://aisaikamasa.blog91.fc2.com/blog-entry-115.html
先にオチを言ってしまうと、『できる男は乳首で決まる』と聞いて「で、どんな乳首なん?」とマジ返しされた、って話なのだが。
では、なぜ『できる男は乳首で決まる』というフレーズが、「おかしい!」、「くだらない!」、「ありえない!」と”笑い”に転化するのか?
また、『できる男は乳首で決まる』と聞いて、”笑い”に転化せず、マジ返しする人がいるのか?
という、人間だけが持っている”笑い”という高等な思考について、少し考察してみたい。
まず。
『できる男は乳首で決まる』というフレーズを聞いて、”笑い”に転化できる人は、実は少数派なのではないか?とおおしまは考察する。
むしろ「マジ返し」をした愛妻家の奥さん(>ややこしいな)の方が「正常な言語感覚」なのではないか?
それはなぜか?
『できる男は乳首で決まる』というフレーズは、日本語として破綻しているか?意味をなさないのか?と考察するに、これは「否」なのである。
日本語という「言語ルール」にはきちんと沿っており、意味は破綻していないし、日本語としてもきちんと成立している。
例を出してみよう。
1.「AはBで決まる」
この文章はどうであろう?日本語の構造上、なんら不備はない。これを”笑い”に転化することもない。
もうひとつ。
2.「できる男はBで決まる」
これも不備はないし破綻もしていない。普通の感覚で受けとれば「なんで?」と聞き返すのが正常であろう。
3.「Aは乳首で決まる」
これはいささか怪しいが(笑)、まーこれも文法上、なんら不備はない。
ところが。
4.「できる男は乳首で決まる」
こうなった時点で、とたんに「なんでやねん!」(爆笑)と”笑い”に転化するタイプの人種と、「なんで?」と”笑い”に転化しない(>出来ないのではない)タイプの人種に分かれるのである。
つまり。
「AはBで決まる」という文章の中に、「AとBの関係性」を重視するタイプの人と、「文法上の破綻がないか」を重視するタイプの人がいるのではないか?と推測する。
もう少しわかりやすい喩えをしていると。
アメリカ人にとって「アメリカンジョーク」は至極”笑い”に転化しやすい文章であるが、日本人には「アメリカンジョーク」のおもしろさはまったく(>と言ったら語弊があるが)理解不能である。
なぜか?
アメリカンジョーク自体に文法上の不備がないからである。
ノン・ネイティブである日本人にとっては、まずは文法上、正しいかどうかが重要であって、まずはその正誤にアテンション(注意)を寄せてしまいがちである。
なので、ネイティブなアメリカ人にとっては、文法上正しいのは当たり前。より高度な次元である文章上の「関係性」までアテンションを惹きつける余裕があるのである。
話を戻そう。
『できる男は乳首で決まる』というフレーズに思わずツッコミを入れてしまいたくなるのは、大前提として「できる男」と「乳首」に関係性が”ない”という理解があるからこそ、「そんなわけねーだろ!」という高度な”笑い”に転化できるのである。
「できる男」と「乳首」に関係性があるのか?ないのか?ということ自体、理解していない・・・というと語弊があるな、関係性に関する知識を持っていない人にとっては、まずはその関係性を解き明かすことが重要であり、「なんで?」とマジ返しをするのは、至極当然のことであり、なんら”笑い”に転化する要素がないのである。
むしろ『AはBで決まる』というフレーズで”笑い”に転化できる人の方が、その人達からしてみれば、「なんでそれが可笑しいの?」と至極不思議に思うのだと推察される。「だって文法上、言語構造上、間違っているところ、ないでしょ?」と。
「箸が転がっても可笑しい年頃」なんても申しますが、普通の人の感覚ならば、「AがBで決まる」というフレーズで笑える君たちの方が
「頭がおかしい」のではないか?
と思われても仕方がないのである。
そもそも「日本タイトルだけ大賞」なんてものを「それは面白そうだ!」という感覚自体が、
世間様の感覚から大変ズレている
ということを各々くれぐれも忘れるべからず、肝に銘じて置くように。
況や「チケットを買って参加してしまう」をや。
あっ、それはオレか(笑)